ごめんなさい。


以前の日記にコメントを寄せていただいていたことに気づきました・・。

うさぎさん、こんばんは。
「力ある本気の言葉を見つけたい」というメッセージはオイラの夢でもあります。
全然ずれてません。兄弟が一人増えたとよろこんでおります(笑)。


うさぎさんのくださったコメントを紹介します。4/27の日記です。

『障害者施設で働いています。この仕事に就くのが、かれこれ15年来の希でした。でも、自分の心の中に、‘自分が障害者で、介助を受ける立場だったら?’の問いがいつもあって、‘私は介助する立場でよかった’という思いが確実にあることを知っています。掘り下げれば、もっといろんな思いが出てくるでしょう。それを自分の目の前にさらけだしていかないとこの仕事は続けられないぞ、と思いながら、つい、いい人になりたがろうとする自分を反省します。仕事上、いい人の顔をしないとならない場面がありますが、自分が自分の嘘にごまかされないようにしないとと思います。そうして、必ず、力ある本気の言葉を、見つけたいと思います。
なんか、趣旨ずれてますか・・・?すみません。』


障害者の反対は、健(康)で(正)常な者と書いて健常者といいます。この言葉がすべてを表現していると思います。オイラは、ナニは日本人平均以下で頭の回転速度は早いけれど記憶力は大事なことほど忘れるようにできていますが、健常者です。


以前、オイラは障害者の人に相談したことがあります。率直な疑問に答えて欲しい、と。その人は脊髄損傷で体が動かず車椅子で食事や排泄、あらゆることにヘルプがないと生きていけません。オイラが聞いたのは「死にたくても死ねないのはどうなの?」という趣旨です。


体が動かず思考は動くというのはたまらんよなオィ、と。「舌は噛み切れるのか?」と聞くと、「試したができなんだ」とのこと。「ただ、今は死にたいとは思わない。」といっていました。


以前は、走ってみたい、仕事をしてみたい、セックスがしたい、勉強がしたい、けれどそう思うことも許されなんだ、だから死にたかった。らしい。けれど今は、そう思うことは許されているし、なんとなくできる社会になってきたから、絶望は感じていないそうです。


オイラは健常者と障害者との間にある差は”可能性の量”だと思います。障害者だけでなく、部落民や在日、難民、高齢者や母子家庭、まーとにかく貧乏とセットになるような社会的課題のすべては、可能性のポイントで分類できると思っています。


可能性ゼロ=絶望です。


障害者にも二通りあって、「生まれたときから」と「生まれてきてから」で大きく違います。生まれたときからの人はずーと麦を食べているのでたまの白米をたまらなくウマそうに食べることができます。ですが、生まれてきてからの人は麦を食うことに我慢できません。人は白米を食べると麦は食べられないようにデキています。ですから、健常者の私たちが、もし自分が障害者だったらたまんねぇよなオィ、と思うのは自然なことだと思います。


話がイイ感じにそれてきました(笑)。


ですが、今のオイラの本気の言葉は、「貧乏人は麦を食え。」です。


ただ、可能性を提供していこうと思います。