知識と体験の距離を思い知らされて。
先日、車で父と共に天王寺あたりから谷町筋を北上していました。天王寺というのは大阪市内の南部にある地名です。
ふと、父が。
「昔はこっから米1斗運んだんやもんなぁ・・」ともらしました。
詳しく聞くと、終戦まもない食糧難の頃、名古屋の闇市で米を仕入れた帰りに一斉検挙に遭ってしまい、天王寺警察に連行されたけれど、どさくさにまぎれて仕入れた米を担いで逃げ帰ったとのこと。
米1升は1.5㌔で、1斗は10升ですから15㌔です。
父は、懐かしいエピソードを思い出して、自分も年をとったなぁという意味合いだったと思うのですが、私には、それがわずか60数年前の出来事であることに、はっとしてすっと背筋が伸びる思いがしました。
私は32歳ですから、私が育った倍の時間前の現実。私の32年間はあっという間だと感じていますので、60年という時間もそう大差ないはず。原爆が落ちたのも、朝鮮戦争やベトナム戦争、湾岸戦争、テロも、そのあっという間の出来事なんだな〜。
普段は歴史として感じていることとすぐ隣にいる父の口から体験者としての話を聞いたこととが同じ時同じ場所で起きた出来事だとはまるで思えませんでした。
私の語る差別と父の語る差別にも同じような距離があるのだと思います。
理論と感情の摩擦が歴史をつくっていくんだなと。