私の夢。

フランスの作家さんにジュール・ルナールという人がいるのですが、その人の言葉がものすごく印象に残っています。

It is not enough to be happy,
it is also necessary that others not be.


by Jules Renard


『人は自分が幸福であるだけでは満足しない。他人が不幸でなければ気がすまない。』


という訳になると思います。


なんというか、タテマエとホンネがあって。タテマエは理性でホンネは野生で。タテマエから見たホンネとかホンネから見たタテマエとかけっこう色々複雑だったりするのですが、↑の言葉は真ん中突いています。


最近読んだ本に『ケンカの作法』というのがあるのですが、その中に【左翼の子はどうして右翼になるのか?】という項があって、これ!と感じました。要約すると、左翼思想=タテマエ、右翼思想=ホンネ、と捉えていて、左翼思想の親の行動が言動と食い違うことを目の当たりにすることから左翼否定→右翼思想へ傾倒する、みたいなことが書かれてあります。


私はずばりこれだなぁ、と。


部落で部落解放運動を間近で見てきて、親からも地域からも思想教育を受けて、家賃とか学費とかタダとか格安とかでラッキー☆だったりして、でも、どうしてこんなラッキーなんだろうとか、誰のお金なんだろうとか考えだして、過去の清算のためのお金を今自分が受け取るってなんだか?みたいに思ったりして、そんなのきりない話やなーなんて。


金欲しかったらいつまでも差別!部落!いうてたらええて話かよ、なんて短絡的に結論だしてました。学説や理論では正当化できることも感覚のところで受け入れられませんでした。もちろんある意味では真実ですが。


だから今の私の考え方は、たぶん真ん中よりちょっと右あたりだと思います。


特に左だとか右だとかタカかハトかなんてどうでもいいことなのですが、言動と行動が食い違っている人を見ると無条件にむかつきます(自分も含めて)。もちろん人生は複雑ですからタテマエだけでもホンネだけでも生活は乱れますけど(笑)。


で、ルナールさんの言葉はタテマエとホンネが混ざり合って、正直やなぁと思うわけなんです。




前回書いた芦原病院の話もそう。


部落出身の人と話すときなどでも、私が芦原病院に対して批判的なことを言うと、反射的に防御行動にでることが多かったです。


「ほんだら部落に病院はいらんて言うんか!?」


まったく論点がかみ合いません。必要ならば堂々と必要だと言えばよい話であって、お金が足りないのであれば、なぜ足りないのかいくら必要なのかを明らかにして、経営的なスキル不足(無力)なのであれば速やかに交代していけばいい。


部落にも病院は必要です。けれどその病院が部落の支配下にある必要はどこにもありません。


部落民は部落差別をした者たちが不幸にならないと気がすまないのでしょうか。もちろんホンネの部分ではそうだと思います。私も私のことを部落とだけ区切った人たちのことは一生受け入れることは出来ないと思いますし、社会的に抹殺してやりたいくらいには怨念もってますから(笑)。


ですから、私では言動に行動がついていきそうにないので、今のところ部落解放運動をするつもりはありません。1人の人間として解放されるよう努力することを選びました。


でも、もしそうなれたら。解放運動やりたいです。