清濁。


流れ者Dさん、コメントありがとうございます。


最近の私はほとんどテレビを見ないのですが、Dさんも見ておられたものは偶然見てました(笑)


http://www.nhk.or.jp/osaka/program/kansai_tokushu


コメントでご紹介いただいたサイトも拝見させていただきました。その中のひとつですが、


第34題 差別とヤクザ


抜粋

20数年前のことであるが、私は同和地区内のいわゆる同和企業で数ヶ月ほどアルバイトをしたことがあった。当然被差別部落民と呼ばれる人たちと毎日接することになる。その際に彼らと違和感を持つことが多かった。その一つは彼らのヤクザに対する寛容な態度であった。


「あそこの弟さん、手や足まで刺青していて、それは立派なもんやったよ。組でもかなりの幹部になってるらしいよ。」

 
「へー。それはすごいねえ。」


こんな会話を最初に聞いたときは逆説的ジョークかと思ったのだが、そうではなく本心からの感心の言葉であった。これでは差別されても仕方がないではないか、誰か注意する人はいないのかと感じたのだが、周囲の人々も全く同調しているとしか思えなかった。しかもこのような見聞は一回や二回ではなく、何回もあったのである。


私自身、はっとさせられました。


生育環境が違えば感受性も違うわけです。ですが、その”違い”はむしろ肯定すべき正確のものであり、文化の源泉でもあるわけです。豊かさの源泉といってもいいかもしれません。その上で…。


私もヤクザの存在に対しては寛容なのです。しかし、寛容であってはいけないと思います。


私のまわりにはヤクザが普通にいました(笑)。地元の銭湯にいけば大小様々な刺青とか小指がないとかそういうおっちゃんにコーヒー牛乳をおごってもらったりしてました。騒がしくしてたら「こらっ!静かにせぇ!!」と怒られてました。ある友人の父はヤクザでしたし、私の父の友人にはヤクザもけっこういました。


私は、清濁あわせもつ人間だと自他共に認めるのですが、そういう感性というものは一般的な感覚とは相容れないものなんだろうなぁと。そういうのまるごとで人間じゃないか!!みたいな開き直りがあるぽいのですが、裏目にもなってます。


なんていうのでしょうか…、


もしヤクザとトラブルになったとき、知り合いにヤクザがいればヤクザ同士で解決してくれるだろう、そういうのはヤクザにしかできないことだってあるじゃないか、少しはヤクザに知り合いがいてもそれはそれでアリじゃないか、てか、むしろいなかったら困るじゃないか!!みたいな感覚です。なんかあったときに頼れる存在として肯定?


あぁ…自己嫌悪。