I'm not a black, but I know what it feel like.


以前、この発言が議論を呼びました。


「わたしは黒人じゃないけど、それがどんな気分かわかるわ」


と、訳します。確かに幾通りもの聞き方ができるメッセージです。逆に、「わたしは白人じゃないけど、それがどんな気分かわかるわ」とするとそれほど議論を呼ぶような発言ではなくなります。


時々、ヒトは攻撃的になる時があります。それは、ズバリと自分の本質を見抜かれそうになったときに起きる現象です。例えば、


部落民は確かにマイノリティですが、差別をしないというわけではありません。ってか他への差別的な思考はかなり強く持っています。チョンガ(朝鮮人)よりマシだ、とか、障害者に生まれなくてよかったなどと思うことで自分を慰めようとします。まぁ、下を見て生きようとするのはヒトの本質のような気がしますから、オイラは、自分より弱い立場や頭数の少ないグループに対して感じることに「オレはそんな風に感じるオマエが不思議だよ」とは言えません。


以前も書いた気がしますが、オイラは平均以上に差別的な偏見の持ち主であることを自覚してます。それに表向きには誰もにそういったことをストレートに言うヒトはほとんど見かけませんが「あぁ、そんなことを考えちゃだめなんだよな。まして口にだしたりしたらややこしいコトに巻き込まれるしな。」と抑止力が働いていることも知っています、一応。


ただ、逆の発言は誰でも気軽にできます。「差別はいけねーよ」「みんなハッピーが一番だ」とかです。もちろん、ありがたみはありません。この手の発言をするヒトの本心も上記のような本質をもってますから。


ですから、部落民が「部落差別するんじゃねぇよ。俺らの生活を良くしろやオィ」といったときには本気を感じることができる熱い響きがありますが、「人権守れや」と言ったとたんに胡散臭くなるのはそのせいです。


で、ヒトは自分の発言や行動が「ウソではないが本気でもない」ということを見抜かれそうなときには攻撃的にならずにはいられなくなります。上記の発言が呼んだ議論とは、その発言の中に本気ではない自分が見えてしまうので攻撃的になってしまった結果だった、ということだと思います。


「ワタシも差別はするけど、ワタシが差別されるのは我慢できないわ」とは言えませんから。


責任ある発言とは、ウソでないことはもちろん、本気であることが要求されます。「言ってるコトの正しさと言ってるヒトの正しさが求められる」というのはこのことです。


この間のJR脱線事故に対してメッセージを書きましたが、オイラは「電車は前の方に乗っちゃ駄目だよな。乗ってなくてラッキー。」と思っていました。そう思うことでひと通り慰められましたから、本気で冥福を祈ることができました、ということです。


教訓。


ウソは言っても、本気でないコトは言わない。